福岡地方裁判所久留米支部 昭和32年(わ)185号 判決 1958年3月20日
被告人 岡本義夫
主文
被告人は無罪
理由
本件公訴事実は「被告人は昭和三二年八月一六日午後一〇時三〇分頃近時不仲の間柄となり相反目していた村上末広から呼出を受けこれに応じて被告人方前に至つたが同所には同人の実弟村上義秋が待合せて居り焼酎の酔に駆られて兄弟が被告人のこれ迄の仕打を非難したが被告人も譲らず、結局附近居住の川口高方に赴いて同人も混じえて解決しようとの村上末広の申出に副い道路を西北方に向け歩き出したが、同部落塚崎隆方前路上に差しかかつた際、先頭を進んでいた被告人の背に突如村上末広が隠匿していた仕立鋏の片刃を取つて突き刺した為、被告人はそのまま該路上を約二〇米位逃げ去つたが、後方を見た処右村上兄弟が追い駆けて来ていたので立止つて後方に向き直り、挑戦に応じて村上末広と格斗となり、同人を押し倒して持つていた仕立鋏の片刃を奪い取り、同人殺害の意思を以つてその左胸部を突き刺し以つて同人に心臓貫通の重傷を与え、多量出血によつて其の場に於て即死するに至らしめて殺害の目的を遂げ、更に該刃物を以つて村上義秋の頭部等を突刺し同人に治療全治一〇日間を要する左眼瞼、前頭部、左側頭部各裂創、頭頂部刺創の傷害を与えたものである」というのである。
右公訴事実中本件結果発生の縁由たる前段該当事実、即ち被告人が村上末広より仕立鋏の片刃で背部を突き刺され逃出すに至つた迄の経緯並びに被告人が村上末広より奪い取つた仕立鋏の片刃で同人及び義秋兄弟に対して公訴事実所掲通りの殺傷を与えた結果的事実は(1)被告人の当公廷に於ける供述(2)当裁判所のなした検証調書並びに証人村上義秋、同西山勇、同江崎広、同川口高に対する各尋問調書(3)医師三原博愛作成の死体検案書(4)同兼行浩二作成の医証二通(5)同太田伸一郎作成の鑑定書(6)被告人の司法警察員及び副検事に対する各供述調書、以上の各記載並びに(7)押収にかかる仕立鋏の片刃一本(証第一号)の存在を綜合してこれを認めるに充分である。
そこで被告人が村上末広より奪い取つた仕立鋏の片刃で同人及び義秋の兄弟を殺傷するに至つた所為が、同兄弟の急迫不正の侵害に対し自己の生命身体を防衛するため已むことを得ざるに出でた行為であつたか否かを判断する。
前掲各証拠の外(1)被告人作成の事実申立書(2)司法警察員作成の実況見分調書の各記載並びに(3)押収にかかる丸首シヤツ(証第四号)、革バンド一本(証第七号)、白布切れ一片(証第一〇号)の各存在を綜合することによつて当裁判所は次の様な事実を認定するものである。即ち、
被告人と村上末広(当四三年)とは曾つては被告人が村上末広の経営する理髪店にしばしば散髪に行つていたことから心易くなり、酒席を共にする程親しく交際していたが、昭和三一年三月中旬頃、大牟田市大正町の酒場で一緒に飲酒しての帰途、西鉄栄町駅附近に於て酔つた末広が被告人に因縁を付け暴行を働いたので憤慨した被告人が末広を殴り付け、又更に同年一一月頃、同市泉町の酒屋で飲酒した際には末広が酔余被告人の親友である野田俊彦の悪口を言つたことから被告人は末広を右野田方に連れて行き、其処で末広と取組み合いの喧嘩をしたこともあつて、当時一旦仲直りはしたもののそれ以来これ等が原因で被告人と末広は行き来もせず近時不仲の間柄になつていた。
その後昭和三二年七月二日頃の午前四時頃、酔つた五六人連れの者が被告人方前の県道から被告人宅に向つて「岡本出て来い」と数回叫んで約一時間位騒いだため未だ明方前の事であつたので被告人は勿論、その家族や近所の人達も眠りを妨げられて迷惑をした事があるが、被告人はこれを約一週間位前、祇園祭の夜被告人と組合つて喧嘩をした事のある同市三池新町一二三番地会社員川口高(当四二年)がその腹癒せのためにやつた嫌がらせであつたと信じ、翌日村上末広も一緒だつたことを知つて同人に対し、既に話はついているのに右の様なことをした川口高の気持を聞いてくれと頼んでいた。ところが同年八月一六日午後一〇時頃、村上末広が被告人宅に呼び出しに来たので被告人は前の県道上に出たところ、其処には末広の実弟村上義秋(当四〇年)も来て居り、末広が被告人に向つて「去年の三月に俺を殴つた事や、野田俊彦の家で喧嘩をした事は忘れちや居るまいね」と言い、傍から義秋も「お前は生意気だ」と言つて交々被告人を責めたが、村上兄弟が酒に酔つていると知つた被告人は、初めは「そうかそうか」と言つて相槌を打つ程度の応対をしていたが同兄弟の態度が余りに喧嘩腰で且執拗であつたところから遂に立腹して口論となり、前記七月二〇日頃の件を持ち出して末広に対し「朝早くから酔つて来られては迷惑するから話があるなら昼間素面で来い」と詰つたところ、同人は「自分は朝早くなど呼出しに行つた事はない」と言い張るので、被告人から「それでは川口高方に行つて確かめよう」と提案し、村上兄弟も右申出に応じて三人で川口方に行くことに話が決つた。
被告人は右口論の際義秋が腹の辺りに刃物らしいものを隠し持つていることに気付いたがこれをさして気にも止めず、村上兄弟の先頭に立つて川口方に行くべく県道(新道)を北に向つて歩き出し、塚本隆方前の三又路から右に曲つて狭い道(旧道)を行きかけたところ殿にいた義秋が「そつちは暗かけ、こつちがよか」と声をかけたので旧道を行く事を思い止まり右三又路に引返した上更めて県道を北上し始めた。
その間末広は義秋から同人が持つていた仕立鋏の片刃(証第一号)を受け取つて被告人の後に続き、右三又路より約七・八米進んだ地点で突然「この野郎」と叫んで右仕立鋏の片刃を以つて被告人の背後からその背部を突き刺して深さ一・五糎の刺創を加えた。
そこで被告人は驚愕の余りそのまま該路上を北に向つて走つて逃げ約二八米先の船津守弘方前附近まで来て振り返つたところ、すぐ背後に右手に仕立鋏の片刃を握つた末広及び義秋の兄弟が迫り、末広が尚も右仕立鋏の片刃を以つて数回突きかかつて来たので、更に逃げ出す余裕もなく危険を避ける為已むなく咄嗟に同人の右手にしがみ付いて同人と鋏の奪い合いを演じ、その間同人から右仕立鋏の片刃によつて左肩部、左手関節部にそれぞれ全治約一〇日間を要した刺創を受けつつも辛じて足掛けによつて同人をその場に倒して右仕立鋏の片刃を奪い取つた。しかし被告人の背後には義秋が組付いていて尚も殴打足蹴りする等必死に攻撃を加えていたので、被告人はこれをも振り解こうとして同人と争つていたところ、起ち上つた末広が又しても正面から飛びかかつて来たのでここに於て腹背から同時に村上兄弟の挾撃を受けたこととなり逃げる事は勿論、暗夜交通の杜絶した県道上では他に救いを求める術もないまま不正の侵害から自己の生命身体を防衛する為已むなく咄嗟に右手に握つた仕立鋏の片刃で末広の左胸部を一回突き刺し、同人をして心臓刺創に基く出血多量のためその場に於て死亡するに至らしめ、又その際被告人の足を取つてその場に引倒した義秋がすかさず馬乗りになつて尚も打かかつたのでこれをはね除け様と苦斗していたところに、被告人の身を案じた西山勇がその場に駆け付けてこれを制止し、被告人と義秋を引離したもので、被告人は義秋と格闘中右仕立鋏の片刃を以つて同人に対しても全治約一〇日間を要した上眼瞼、前頭部二箇所、左側頭部各裂創、頭頂部二箇所刺創の各傷害を与えたものである。
以上の事実に基き、被告人の一連の所為を統一した全体として全般的に観察すると、被告人の所為は村上兄弟の一方的な攻撃行為=急迫不正の侵害に対し自已の生命身体を防衛するため已むことを得ざるに出でた行為である事が明らかであり、まさしく法に所謂正当防衛行為に該当するものと言はねばならない。
ところで検察官は、被告人には、末広の呼出に応じて自宅前の県道上に出て村上兄弟と口論し、川口高方に三人で連れ立つて行こうとした時から既に同兄弟の挑戦に応ずる意思があつたものであるからその後の同兄弟との抗争は単なる喧嘩斗争であつて正当防衛の観念を容れる余地はないと論ずるが前記認定の通り、被告人が川口方に赴く事を提案したのは、末広の主張の真偽を確かめんがためであつてその事が直ちに同兄弟の挑戦に応じたとの結論に結び付くものではなく、むしろ、川口方に於ける話合によつて同兄弟との紛争を解決しようとする態度の表れ、と見るべきものであるから、検察官の右論旨は採用し難いものである。
次に公訴事実の記載による被告人は、末広に仕立鋏の片刃で背部を突き刺された後、一旦は逃げ出したものの、約二〇米先の地点で立止つて振り返り、進んで村上兄弟の挑戦に応じた様になつているが、前記の通り被告人は義秋が刃物らしいものを隠し持つていた事実には気付いて居り、しかも実際に自分の背部を突き刺したのは末広であつて、その間、義秋、末広の間で右刃物の授受があつたこと、言い換えれば、義秋の持つていた刃物と末広が被告人の背部を突き刺した仕立鋏の片刃とが同一物であつたことについては全く知らなかつたのであり、被告人の立場からすれば村上兄弟の何れもが共に刃物を所持していたものと考え得られたのであるから、かかる相手に対し既に背部に相当の傷害を受けていた被告人が逃げようと思えば逃げられたにも拘らず敢えてこれをせず、剰え素手を以つて進んでこれに対し斗争を挑んだというが如きことは到底考えられないところであるので、前記の通り被告人は末広の攻撃が急な余り、更に逃げ出す余裕がなく、已むなく末広の右手にしがみ付いた、と認定するを相当とする。
又村上義秋の証言によると、被告人は末広に仕立鋏の片刃で背部を突き刺された後、一旦は県道上を北に向つて約二五米先の地点、即ち前記認定にかかる被告人と末広とが仕立鋏の片刃の奪い合いを演じた地点の若干手前まで逃げたがその後は逃走を止め、約一八米引返して来てそこで末広と組打ちをした、とあり、そうして検察官は、右義秋の証言を捉えてこれを強調し被告人が村上兄弟を殺傷するに至つたのは、積極的に自ら買つて出た喧嘩斗争行為の結果に外ならないので正当防衛の観念を容れる余地はない、と主張するのである。しかし乍ら本件発生の直後(同夜午後一〇時三〇分着手)に司法警察員によつてなされた実況見分の結果を記載した実況見分調書によれば、被告人が当裁判所のした検証の際に、末広と仕立鋏の片刃の奪い合いを演じ、且つ末広、義秋の兄弟と組打ちをしたと指示する地点と略符合する地点に、当夜末広が使用していた革バンド一本(証第七号)、並びに被告人が着用していた丸首シヤツ(証第四号)の襟部からちぎり取られた白布切一片(証第一〇号)が各遺留されて居り、しかもその附近の地上に血液が五ヶ所点々と流出していたことが認められるのに反し、義秋が供述する、被告人が約一八米引返して来て末広と組打ちをしたという地点の地上には毫も血液の発見された旨の記載のないことが明らかであるからこの点からみれば被告人の供述なり指示に真実性があるものと言うべく、被告人がわざわざ約一八米引返して来たという義秋の証言は明らかに真実に反したものであつて到底措信するを得ないものである。
従つて義秋の右証言を前提として、本件に正当防衛の観念を容れる余地はないと論ずる検察官の主張も首肯し難いものといわなければならない。
次に被告人は、末広を死亡するに至らしめた事実につき、同人を仕立鋏の片刃で刺す意思は全くなく、同人の方から自ら右仕立鋏の片刃に突き刺つて来た、と弁解し、同様に義秋に対し傷害を与えた事実についても全く意識しなかつたと述べているが、右供述は当裁判所の措信しないところであり、前記の通り村上兄弟に対し何れも傷害の認識があつたものと認定した。
更に被告人が義秋に対して傷害を与えた事実であるが、成る程同人は実際には刃物を所持して居らず、単に素手で被告人に挑んだだけではあるが、被告人から見れば義秋も亦刃物を所持していると考え得られたのであり、結局末広、義秋の各攻撃が互に他を補い一体となつて被告人の生命・身体に対する急迫不正の侵害を構成したものであるから義秋の攻撃だけを切り離して考察し、刃物を持たない同人に対してまで被告人が傷害を与えたとしてその所為を以つて防衛の程度を超えたものと論ずることは許されないのである。
これを要するに被告人の村上兄弟に対する各所為は何れも刑法第三六条第一項所定の要件を充足したものであり、正当防衛行為として罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三三六条に則つて被告人に対し無罪を言渡すこととし、主文の通り判決した次第である。
(裁判官 大曲壮次郎 長利正己 武藤泰丸)